辻畑光宏
平成4年に脳梗塞体験記として小冊子を2000部ほど印刷いたしましたが、残りが無くなりましたので当時の原稿のままホ-ムペ-ジの中に入れさせていただきました。
それは私にとって文字どおり”青天のへきれき”そのものでした。54才という年齢で、夢にも思ったことのない脳梗塞に襲われ、その精神的動揺は、とても言葉で言い表すことのできるものではありませんでした。人は病気をすれば、おそらくいろいろな思いを抱くでしょう。その思いは、それぞれの職業、職場での立場、家庭での立場、持って生まれた、あるいはそれまでに育まれた精神力の強さ、弱さにより千差万別でしょう。ここに記した私の心の動きは、たった一つの事例にすぎません。患者の心は、周囲の者のちょっとした不用意な発言はもとより、その時の心理状態によっては、かりに慰めの言葉であっても傷つくことがあります。周囲の者が少しでも広く、深く患者の心理状態を察し、安易に楽観的な言葉をかけるのではなく慎重に行動し発言をしていただくための参考になれば幸いです。
私の体験を書くもう一つの目的は(こちらの方がより重要ですが)、患者あるいは家族の方が、然るべき適切なリハビリテーション(リハビリと略す)を受けるまでに、どう過ごすべきかの参考にしていただきたいということです。現在は、どこにでもすぐれたリハビリ施設が有ります。しかし、病気はいつ、どこで発病するかわかりません。運ばれた病院にリハビリ設備が全く無い場合もあると思います。また、リハビリ施設に転院を申し込んでも、ベットが空くまでに1ヶ月時には2ヶ月も3ヶ月も待たされ、その間無駄に過ごしている患者さんも少なくないと思います。しかし、回復のためには、最初の3ヶ月が肝心です。リハビリの開始が遅れれば遅れるほど回復は悪く、後遺症(指や手首の曲がったままになったり、強い手足の麻痺)を残すことになります。自己紹介に書きましたように現在、私は長崎大学医療技術短期大学部作業療法学科に所属しています。いかにもリハビリの専門家のようにみえますが、私は神経内科学を専門にしているだけで、一般の方ほどではないにしても、リハビリは素人にすぎません。従って、この体験記は理学療法士や作業療法士を対象にするものではありません。単なる体験の羅列であって、リハビリの系統的記述でもありません。不運にも、脳血管障害で麻痺になられた方が、きちんとしたリハビリ開始まで間のつなぎになり、一日も早く、また、より良い状態で、職場や家庭への復帰ができるよう、多少でも参考になればと云う思いで書いたものです。
北九州市のある病院に、筋肉の生検検査(筋肉の一部を手術により取り出し顕微鏡的に調べる検査)に呼ばれて、神経グループ(神経内科を専門に勉強している医師)の一人K君と一緒に、6月30日夜北九州市にやってきたのでした。彼は八幡区の同僚のS君の家に泊まり、私は門司区の実家に帰ったのでした。
1992年7月1日午前0時過ぎ、論文原稿を読みながら眠ってしまったのです。なんとなく左手の不快感があり、寝ぼけ眼で時計をみると1時30分でした。きちんと寝ようと思い、電気を消すために立ち上がろうとしましたが、左方向に転んでしまいました。この瞬間”左半身の麻痺が起こっている、大変なことになった”と悟ったのです。隣室の母(85才)を呼び起こそうとするのですが、オーオーというだけでなかなか言葉にならなりませんでした。やっと母が目を覚まし、消防署に救急車の手配とS君のところに電話を頼みました。しかし、あまりにも動転していた母には、どうして119番をダイアルするもかわからない状態でした。一方、母からの連絡で、左手が萎(な)えていると聞かされ、仰天した女房は、長女の運転で10分後に長崎を出発したといいます。しかし、気が付いてみると、保険証もお金も持っていなかったという状態でした。午前2時頃、救急車が到着し、30分程揺られて北九州市立八幡病院に入院しました。救急車に揺られながら、願わくば夢であってほしい、夢でなければTIA(一過性脳虚血発作と言い、神経症状が24時間以内に消失するもの)であってほしいと祈っていたのでした。
ところで、世話になっておいて文句をいうのは筋違いですが、救急車の乗り心地はお世辞にも素晴らしいものとは言えません。かつて、医師として乗ったことはありますが、患者としては、勿論始めての経験でした。路面の震動が直接背中に伝わり、ブレーキを踏むたびに、体が前方にずれる感じははなはだ気分の悪いものでした。頭痛や腹痛のある患者には、もっと不快に感じるであろうと思いました。金持ちの日本、クッションの良い車、患者の状態で体位を多少とも変更(頭の方を少し高くするとか)のできるような救急車を作っていただきたいものです。
救急部での診察、心電図、血圧などの検査の後、発症から3時間の時点で、頭部CT検査(単純CTと造影剤を使用したCT)が行われました。主治医のS君より、”先生、CTで異常が無いから血栓溶解剤を使いましょうか”と言われ、”それではそのようにしてくれ”とお願いしました。脳梗塞では、通常24時間以上経過しないとCTで異常を証明できないのです。従って、CTで異常が無いということは、少なくともこの時点で、脳出血で無いことが確認できたことになるのです(表1に脳血管障害の種類、図1に体の各部の名称をあげています)。
表1 主な脳血管障害の種類
種類 | 特徴 | |
---|---|---|
頭蓋内出血 | 脳出血 | 高血圧と関連、半身運動・感覚障害、発達障害、意識障害、内包部に多い |
くも膜下出血 | 先天性の動脈瘤が原因、脳の表面に出血し、原則として麻痺は起こらない | |
虚血性疾患 | 脳血栓症 | 動脈硬化と関連、半身運動・感覚障害、発語障害、意識障害(軽度)、内包部に多い |
脳塞栓症 | 心疾患、脈の異常などが原因となる、半身運動・感覚障害、発語障害、意識障害、重篤なことが多い | |
その他 | 一過性脳虚血発作 | 症状が24時間以内に消失するもの |
追加:現在は脳梗塞(虚血性疾患)は、アテロ-ム血栓性脳梗塞(脳血栓)、ラクナ梗塞(直径15mm以下の小梗塞)、心原性脳塞栓に分類されています。
病室に移り、血栓溶解剤の点滴を受けながら、左の手指を屈伸したり、手を上げてみたり、下肢を屈伸したりして、麻痺が軽くならないかなと期待をしていました。すなわち、TIAであることを祈っていたのです。長く感じた夜が過ぎて、翌朝、主治医より、夕方産業医科大学でのMRI(核磁気共鳴画像)検査の予定が告げられました。最近は、MRIという言葉は一般の方にもかなり普及しているようですが、CTと比較して、はるかに詳細な情報を得ることができる検査です。おそらく、主治医より神経内科O助教授への依頼で、救急で検査されることになったものと思われます。所定の時刻(発症よりおよそ15時間目)、産業医科大学へ急ぐ救急車に揺られながら、血栓溶解剤の効果はなく、指の動きは明らかに悪くなり、上肢の挙上も肘を伸ばした状態では出来なくなり、すでにTIAは有り得ない、脳梗塞になってしまったと思いつつも、TIAにいちずの望みを残していました。MRIの結果は、予想通り内包部(神経線維が集まった脳の深部で脳梗塞のもっとも起こり易い部位)に小さい梗塞巣が証明されました。”先生、内包部の小梗塞が証明されましよ。完全に治りますよ”また、女房からも”ぱぱ、小さい梗塞で完全に治ると言われたのよ。この際、いい休養じゃない”と慰められたのです。しかし、当の本人からすると、小梗塞で良かったとは言えなっかたのです。脳梗塞だと覚悟をしていたとはいえ、この時点で、TIAの可能性が完全に消滅し、愕然とし、周りの良かった良かったという慰めに対して、涙を堪えて、うなずくのがやっと出来る私の応答でした。
一般に、脳梗塞は病巣周辺の浮腫(はれ)が出てくるため、発症後2ー4日目頃までは症状が悪くなります。私の場合も、教科書通り、48時間後には、左の手指は全く動かなくなり(筋力としては後に記載します)、手関節、足趾(足の指)、足関節(足首)も完全に動かなくなりました。舌を出すと左に曲がり、左の顔の筋肉も麻痺し、水を飲むときに口の左端からこぼれてきたり、舌と顔面筋の麻痺による高度ではありませんが発語障害(呂律がまわらない)、それに自分では予測以上にえん下障害(喉に引っかかる感じ)を感じ、10分位の間隔で唾(つば)を飲み込む動作を繰り返しました。皮膚を二本の指で摘むと、皮膚と皮下脂肪を一緒にしたものを感じ取ることが出来ますが、更に深く摘むと、特有の硬さ(緊張)の筋肉を識別できます。ところが、麻痺が強くなった時点では、筋肉の緊張が全く無くなり、指で摘んでも筋肉の有無が分からない状態になりました。一般に内包部小梗塞では、意識障害はなく、生命の危険性は無いのですが、発症後2日から3日にかけて頭に浮かんだ思いは、前記の様な症状から、すなわち、えん下障害から誤嚥(ごえん)による肺炎を起こすかもしれない。予想外の合併症が起こり死に至るかもしれない。筋肉の存在が分からない位の麻痺だから、職場復帰が可能なまでには回復しないかも知れない、ということばかりがぐるぐる回って、自分ではどうにもコントロールできない落ち込んだ精神状態になりました。昼間は見舞い客との話や慰めで、人が居ないときは、消灯後も可能な限り、見ても見なくても、テレビをつけっぱなしにして、どうにか時間が立ちましたが、テレビも終了し、女房もベットの横で眠ってしまうと、とめどもなく涙が溢れ出た3日間でした。父は既に亡くなり、一人っ子の自分が、85才の母を残して死ぬ訳にはいかない。しかし、死なないという保証はない、もしもの時は、母と子供のことを頼むと女房に一言いっておこうと思っても、女房の顔を見ると、涙の方が先に出そうになって結局一言も言えませんでした。
ところで、急性期の7日間入院した北九州市立八幡病院は、面会謝絶であっても、一日も見舞い客の無い日はありませんでした。先輩、同僚、後輩が各々の立場で気配りをし、慰め、励ましの言葉をかけてくれました。自分が主治医の立場でも、これ以上の言動は取れなかったと思います。しかし、現実に自分が患者となり、しかも気持ちが落ち込んだ思考のみに占められた状態では、同じ気配り、慰め、励ましの言葉も、その瞬間の自分の精神状態によって、本当に慰め、励ましに感じられたり、逆に空しく、さらに落ち込む誘因になったりすることを痛感しました。後で述べますが、N名誉教授が脳梗塞になられた時の話で、これ以上は話しても、どうしても判ってもらえないというラインがあると云われたことがあります。おそらく、第三者には立ち入ることのできない、患者の立場でのみ感じる心理状態であろうと思ったのでした。この様に、第三者は家族であっても、患者の心理状態をすべて理解するのは実際は不可能ですが、それでも、患者の瞬間、瞬間の心理状態の把握に努力し、患者の気持ちを察しながら対応しなければいけないと、28年間の医師生活を通じて始めて強く感じるとともに反省をした次第でした。
一般に脳血管障害によって、生命が脅かされるのは、病巣が大きくて意識障害が強い場合、病巣の部位が、生命の維持に重要な脳幹(大脳と脊髄の間の部位)にある場合、肺炎や胃腸から出血するような合併症のある場合などです。一方、起こってくる症状は病巣の部位によって異なります。症状の強さは、大きな病巣であれば当然強くなりますが、小さな病巣の場合は、脳の機能として、重要な部位そのものか、その部位から多少ともずれているかによて異なります。また、その後の回復程度にも影響してきます。さて、3日目に作業療法学科のN助教授が長崎から見舞いにきてくれました。この時、麻痺した足(足関節から末梢)の足底側への屈曲を予防するために、足を踏みつけた位置に保てる様に、固いダンボール箱を足元のベットの柵に取り付けてくれました(図2)。一般に脳血管障害による手足の麻痺は、上肢では指、手関節、肘関節で屈曲拘縮(曲がった状態で関節が固定される)になり、下肢では伸展状態(膝関節、足関節の伸びた状態で固定される)になります(図3)。従って、歩く時に膝が曲がらず、爪先が地面を擦って歩きにくくなります。それ故、足を背屈位(爪先を上に向けた位置)に保つことは大変重要です。また、布団の重みでも足底側へ屈曲しますので注意が必要です。心は上述のように落込み、空しさ、はかなさで占められていましたが、それでも、次に述べるような運動を3日目より行いました。
急性期(3日目以降7日まで)に自分で行った運動
手指は右手で足とは逆に背屈位(指をまっすぐよりもっと伸展した状態)に維持したり、伸展、屈曲を繰り返す運動を行いました(図4)。手関節も同様に屈曲、背屈を(図5)、肘関節はベット上伸展位(手の平を上にした位置)から右手で手首を持って屈曲する運動を(図6)、肩関節は両側の指を組み合わせる(図7)か、手首を右手で持って、手の平を下にした位置で可能なかぎり頭に近い位置まで動かす(図8)ようにしました。下肢は足趾、足関節を動かすことは出来ませんでしたが、膝関節、股関節はどうにか屈曲可能でしたので、時間のある限り下肢の屈伸を行いました。これらの運動は見舞い客の居ない時間は可能な限り行いました。ただし、ベッド上のリハビリであっても、点滴の針の位置がしばしば運動の邪魔になりますので、点滴の際にはどこに針を刺すか配慮することが必要です。麻痺が強くて自分で動かせない場合は、家族の方の介助が必要です。
4日目、入院後始めて便がしたくなりましたが、なかなかベット上ではできず、便器をベットの右側(麻痺の無い側)に用意してもらい、用便のついでに歩行器もお願いし、まずは起立をすることにしました。身長166cmの私でも、歩行器が低くて腋(腋窩)で左上肢を支えることができず、枠の上に包帯やタオルケットをのせて15cm程高くし、腋で支え、更に、上肢をぶら下げたままですと、その重みで肩の脱臼が起こりますので、歩行器の前の方に左上肢を乗せ、右手でそれを支えるようにしました。起立初日ですのでテレビを見ながら5分程の起立を2回、5日目は室内(2-3m)を動き、6日目は30分程度の起立と廊下を20m程移動を2回、7日目は20mを5往復を2回行いました。歩行訓練めいたことを行いましたが、勿論この時点では、左足で体重を支える力は有りませんでした。一方、ベット上では上述の様な上肢の運動を継続しました。これで急性期を終了しました。
8日目、K君の車でS君、M君の付添いで、リハビリのため長崎北病院に転院しました。ペットととの付き合いは、複雑な対人関係とは違って単純です。私の家にはベンという雄のトイプードルを飼っています。ペットは病院には入れてもらえませんので、ベンとの北九州市から長崎市まで3時間のドライブは、束の間の心の安らいだ時間となりました。
さて、急性期にどの程度のリハビリをすべきか、あるいは、どの程度可能であるかは病気が出血か梗塞か、およびその重症度などによって異なりますので、一律には言えません。しかし、意識障害が無ければ、ベッド上で自分で行うのに支障は無いものと思います。また、たとえ意識障害があっても、瀕死の重症で無ければ、家族が手足を軽くマッサージをしてあげたり、関節をゆっくり動かしてあげるのは差し支えはないと思います。前に述べまし様に症状は発病後4日あるいは5日頃まで悪化しますので、この時点の病状判断は主治医に相談していただくと良いと思います。
なお、脳血管障害による障害の種類は、運動麻痺(手足の力が弱くなって動かせない状態)、感覚障害(痛み、皮膚を触った感じ、手足の動きなどが分からなくなる状態)、言語障害(発声に関係した口、喉の筋肉の麻痺によるもの・・・構語障害、発語をコントロールする脳の中枢の障害によるもの・・・失語症)などがありますが、ここでは運動麻痺以外の症状にはふれないことをお断りしておきます。
7月8日(発症8日目)、午後5時無事に長崎北病院に到着しました。玄関前で車椅子に移り、病室に案内され、ドアを開けた瞬間目に入ったのは神経班の皆さんが作ってくれた七夕でした。病室に落ち着いて、皆が帰った後、彼らの心のこもった七夕の短冊の文を読みながら、女房共ども感涙にむせたのでした。
精神的に落ち込んで、ただ涙、涙ではどうにもなりません。自分自身リハビリに励まず、運動麻痺の患者さんに、一生懸命リハビリに励むようにと云っても何等説得力が有りません。また、左手が全く役に立たなければ、診療は不可能。診療ができなければ、一家の生活もできなくなる。何がなんでも職場復帰をしなければと思い、気持ちを切り替え、この時点の症状から、一応の回復の目標を立て、リハビリに励む決意をしました。
7月8日の時点の症状は次の通りでした(筋力の表示の数字は表2を参考にして下さい)
えん下障害:軽度の呑込み難さを自覚する程度
発語:“らりるれろ”(舌の障害)、“ぱぴぷぺぽ”(顔面筋の麻痺)が多少言いにくい程度。発語以上に食事の度に左の唇の内側を咬むのに閉口しました。 上肢:指を自分で動かすのは不可能(筋力で示すと 2-)、但し右手の指を動かし、同時に同じ様に左指を動かすようにすると5mmほど動かすこと ができる(模倣連合運動・・・これは運動リハに極めて重要)
手関節屈伸・・・2-
肘関節屈曲・・・3-、 伸展・・・2
肩関節(手を肩の関節で上げる)・・・2
下肢:指の屈伸・・・連合運動により5-10mmm可動
足関節背屈・・・2-、 足底側への屈曲・・・2-
膝関節伸展(膝を伸ばす)・・・3、 屈曲・・・2
股関節伸展(下肢全体を伸ばす)・・・3+、屈曲・・・3+
筋肉:自分の指で摘んでみても上肢は筋肉が有るのか無いのか判らない状態(医学的には弛緩性麻痺と云います)、下肢もほとんど判らない。上肢にも下肢にも明瞭な筋肉の萎縮を認める。
表2 筋力の表示法
表示法 | 判定基準 |
---|---|
5 | 正常 |
5- | ほとんど5に近い |
4+ | 4より強い抵抗に抗しうる |
4 | 重力と中等度の抵抗度に抗して肢位を保持可能 |
4− | 重力とわずかな抵抗に抗しうる |
3+ | 3よりわずかに強い |
3 | 重力に抗して肢位を保持 |
3− | 重力に抗してほぼ関節の運動範囲を動かすことができる |
2+ | 重力を除き、摩擦に抗して関節運動可能 |
2 | 重力、摩擦を除いて関節運動可能 |
2− | わずかな関節の動き |
1 | 運動無く、筋の動きのみ |
0 | 筋収縮なし |
この様な麻痺の程度より、完全な回復は有り得ないと判断し、最終目標を80%程度の回復としました。そこで、入院期間を7月31日まで(1ヶ月間)とし、その後は外来通院と自宅でのリハビリで8月31日まで(2ヶ月間)で50%の回復を、9月1日より何とか職場復帰をする。ただし、9月30日まで(1ヶ月間)は体慣らしとし、10月1日(3ヶ月後)より完全復帰をする。最終の80%回復は6ヶ月後の12月末を目標としました。
長崎北病院で、誰が私のリハの相手をするかもめたようですが、結局作業療法は長崎大学医療技術短期大学部卒業2回生の、理学療法は同じく3回生の私の娘と同年代のうら若き女性療法士が担当することになりました。それぞれ1時間ずつ、結構容赦なくきたわれました。このような小冊子を書く目的は、系統的なリハビリを紹介するのではなく、きちんとしたリハビリが開始されるまでの対応を紹介するのが目的ですので、私が病室で行ったことを述べることにします。実際、リハビリ室で行われるリハビリのみでは不十分ですので、自分で補足しなければなりません。リハビリを開始された方は、そのリハビリの中から自分でできるものを選択して行っていただければよいと思います。
[訓練方法](最初はベッドに寝た状態での訓練になりますが、回復程度に応じて変更が必要です。麻痺の強い間は健側で介助し、自分で動かせるようになれば介助なしで、更に力が強くなれば健側の手で抵抗を加えたり、錘による負荷をかけて訓練をしなければなりません)
1)上肢の訓練
肩関節:
上肢挙上:上肢伸展位(躯幹につけた位置)から手の平を下に向けた状態で、上肢全体を上げ、頭の上までもっていく。自分でできない力 のレベルでは誰かに介助をしてもらわなければなりません。麻痺の強い時期には肩関節の脱臼をさせないように注意し、無理に動かさないようにしなければいけません(図7、図8)。
手の平下向きで、下内側から上外側への挙上
手の平上向きで、下外側から上内側への挙上
上肢外転、内転:手の平下で躯幹につけた位置より外側に上げていき、肩の高さで手の平を上に向け、頭につくまで挙上する。その後元の位置までゆっくりもどす(図9)。
肘関節:
前腕の屈曲(上腕二頭筋)(図10)、伸展(上腕三頭筋)(図11)。運動としては単純。ただし単純に屈伸するのではなく、屈伸の途中で前腕を保持すると筋力アップに役立ちます。
手関節:
肘関節と同様主に屈曲(手の平側へ曲げる)と伸展(手背側に曲げる)をおこないます(図5)。肘関節も手関節も他人の援助がなくても反対側の手を使って自分で訓練ができます。
指(指の骨と骨の間の関節)・・・指間関節、指の骨と指の付け根の骨との関節・・・中手指関節があります。
前記のように脳血管障害による運動麻痺は上肢では指間関節、中手指関節、手関節、肘関節で屈曲拘縮となります。特に指の屈曲拘縮は著しい機能障害となります。自然の状態で指は屈曲してきますので、訓練は徹 底して伸展、背屈をおこなわなければなりません。
*健側の手で指を背屈し、その位置にしばらく保持する(図12、図13)
*指の伸展と同時に指を開く努力をする(動かなければ健側の手で動かす) (図12)
*指の訓練には模倣連合運動を利用するため、健側も同様に動かすこと (図14)
*親指は他の4指と多少動きが異なります。手の平と同じ平面、手の平に垂直の方向(この動きの訓練はなかなか大変で根気を要します)、小指の付け根への方向の運動など(図15)
*ベットに腰掛けているときや椅子に腰掛けているときなども上記の訓練は可能です。指に関しては、少しの時間でも伸展位に保つため、ベットに腰掛けた時は、健側の手でベットの枠を捕まえ、麻痺側はベット上に、 手関節で背屈し、指は伸展し、可能な限り回外位で、肘関節は伸展位で保持するように努力しました(図16)
*ある程度指の伸展が可能になった時点で、誰にでも見られるかどうか判りませんが、指を力いっぱい伸展するようにし、なお不十分な状態の時は大きく欠伸(あくび)をすると指がまっすぐに伸展し、その状態をしばらく保持できます。訓練の際試みて下さい(図17)
上肢の訓練は結構肩関節に負担となり、脱臼やそうでなくても肩の痛みを起こしますので、5回あるいは10回の訓練ごとに肩のマッサージをすると良いと思います。
2)下肢の訓練
股関節:
屈曲、伸展、外転、内転など(図18、図19)
膝関節:
伸展、屈曲。下肢では一般に屈曲が弱く、屈曲の訓練は腹這(腹臥位)で下腿を屈曲し、また45度程度の屈曲位に保持するのも有効です(図18、図20)
足関節:
前述の様に足底側への屈曲拘縮(尖足)が起こり易く、そのため歩行が障害されますので手指の屈曲拘縮と同様これを極力防がなければなりません。爪先の背屈訓練、拘縮に対して、第三者に力いっぱい背屈するようにしてもらう。自分でできる訓練として、ベッドの横に立って、転ばないようにベットの枠を捕まえ、踵が床から上がらないようにして膝を曲げると足が背屈位になりますので、この姿勢を5-10分保持し、状態に応じて一日に数回繰り返すことが必要です(図21、図22)
麻痺下肢全体に対して:
転ばないようにベットの枠を捕まえて、椅子から、或は可能なレベルであればしゃがんだ位置より立ち上がる訓練。麻痺の程度により、麻痺側の下肢のみで立ち上がる訓練、歩行器を使用あるいは車椅子を押して歩行は訓練などを積極的に行うことが必要です。また、足関節の背屈のために歩行可能であれば膝を曲げた状態での歩行訓練は有効です。
女房は病院に泊まりこみで、毎日私のリハビリの相手をしてくれました。満足すべき経過であったかどうか、自分でも判断しかねましたが、予定通り7月31日退院しました。その時点の筋力および生活動作は下記の通りでした。
[筋力]
えん下障害:消失
発語:第三者には殆ど異常に聞こえない程度(自分では少し話難い)
上肢:握力 0kg
指の伸展 中指と薬指のみ完全に可能(4-)、人差指、小指は不十分(3)
親指(3)
手関節 (3)ただし軽度運動制限(拘縮)あり
肘関節 屈曲(4-)、伸展(3+)
肩関節(挙上・・・三角筋) (4-)
下肢:指の運動 かなり良
足関節 (4-)
膝 伸展 (4-)、屈曲 (3+)
股関節 (4-)
[生活動作]
両手で洗顔:不可能(左手の指が伸びず、かつ指の間が開くために水をすくえない)
食事:左手に茶碗を持つのは不可能
入浴:女房の介助による、タオルを掴めないので体を擦ることはできない。
歩行:右手で杖を持ち、左上肢を女房に支えられて、退院の前日の夜、病院の周り1km足らずを1時間かけて初めて歩きました。
退院後の自宅でのリハビリは、上記亜急性期のリハビリと全くかわりません。多少筋力がアップしたために、それぞれの運動に錘(おもり)による負荷をかけたことが相違点です。錘はスポーツ店で安い鉛板500gmを4枚(合計2kg)を購入しました。
[訓練方法]
1)上肢:
指;寸暇を惜しんでグー・パーの屈伸運動、特に伸展(背屈)には健側の手で抵抗を加えて行う。
中手指関節の運動(屈伸);指間関節で鉛板500gmを巻き(指間関節の屈曲を防ぐ目的で)中手指関節の屈伸を行う。ただし鉛板に耐える力が無い間は健側の手で補助し極度に屈伸するのを防ぎながら施行。
手関節の運動(屈伸);鉛板を中手指関節のところで巻き付けて屈伸運動。肘関節、肩関節の運動 鉛板(500gm-1kg)を手首に巻き付けて負荷として運動する(図10、図11)
8月10日頃握力5kg、どうにか1kgの鉄アレ-を握れるようになり、その後は鉛板を巻かずに鉄アレ-を持って運動をおこないました。筋力の程度に応じて錘の負荷の方法を工夫していただきたいと思います。
棒体操
ところで腕を伸ばして、眼の前の高さで直径3-4cm、長さ50-60cmの棒を握ぎてみて下さい(棒は親指と他の指の間に挟む)。握り方は手の平が下向きと、上向きの二通りがあります(図23)。次に棒が眼前に来るように腕を曲げるようにします。ある程度握力があり、手関節でも屈伸がある程度できても腕が曲がるに従って麻痺側の指がはずれてきます。これは前腕の回内、回外が制限されているためです。回内、回外運動は以外としにくい運動です。最初は健側の手で回内、回外を行い、同時につっぱった前腕の筋肉をほぐしてやることが必要です(図24)。一人で二つの動作はできませんので、回内、回外運動か前腕筋をほぐす行為のどちらかを第三者に援助してもらわなければなりません。自分で鉄アレ-を握れるようになれば、それを握った状態で回外位(あるいは回内位、主に回外位の際に前腕の筋肉が突っ張ります)に保持し、健側の手で前腕の筋肉をほぐすようにします。
2)下肢:
足関節;背屈には足先に1-2kgの鉛板を巻いて行う(図21)
膝関節;特に屈曲には、足首に1-2kgの鉛板を巻いて屈曲運動、或は45度に下腿を保持する訓練(図20)
歩行:距離に関係なく毎日1時間の歩行を行いました。
退院後に私が行った訓練を紹介します。病院では、理学、作業それぞれ45分から1時間、訓練の時間帯が異なるため、1日2往復しました。そのため協会からはお叱りをうけるかもしれませんが、自家用車を運転して通院しました。パワステアリングであれば、右手のみでハンドル操作は可能です。オートクラッチは、パーキングからニュートラルに入れるのに多少親指の力が必要(最初の中は右手で行いました)ですが、ニュートラルからドライブへは指先が少し引っかかれば可能です。時にセカンドまでギアが入るのは実質的ドライブには影響しません。問題はサイドブレーキですが、私の使用しているトヨタクレスタはフットブレーキでリリースは指先が引っかかれば容易でした。通常の運転席の横に設置されたサイドブレーキの操作は握力0kgでは不可能です。さて、理学療法で行った個々の運動は10回から筋力に応じて20回30回と増やしていきました。自宅では更に同じ運動を100回から200回、足の背屈は、時には500回行いました。勿論、同じ動作を100-200回繰り返すのは精神的にいらいらしてきますので、途中で運動の種類を変え、最終的に上記の回数にしました。訓練時間を合計すると10時間程度、すなわち起きている間はほとんどリハビリに集中したことになります。退院後、歩行はほとんど毎日夜9時から10時、ベン(雄のトイプードル)と一緒に、と言っても私の杖を使っての歩行速度は普通の成人の1/5程度のため、女房がベンの紐を持っての散歩でした。自宅が高台のため、行きは1000歩のくだり、帰りは1000歩のかなり急な上りとなり、足には良い負荷となりました。歩行速度は1時間2000歩でした。8月10日頃には歩行速度がアップし、1時間で3000歩程度になりました。8月中旬から一人で入浴、但し握力が弱くタオルをうまく掴めないため背中を擦るのには苦労しました。また、湿った体にシャツを着るのも大変な時間を要しました。8月末、職場に顔を出してみました。誰でも経験することと思いますが、知ってる人が居ない所と、居る所ではこれほど違うのかと改めてビックリするほど歩行が悪くなるのを感じました。かなり膝を屈曲して歩行可能になったと思っていましたが、職場の皆さんの前では、膝が曲がらず足を引きずって、杖なしでは歩けない状態でした。指の訓練にファミコン、パソコンも使用しました。実際ファミコンは殆ど親指のみの屈曲訓練にしかなりません。パソコンは8月末の時点では指全体は使えずシフトキーを押す程度の機能でした。ところで、指の訓練によくテニスボール(床にワンバウンドして投げられたのを掴む練習)が使われますが、硬いテニスボールは指の動きの悪い時期は手の平で跳ねて掴むのが困難です。この時期にお手玉(200-500gmで、重さ、大きさの種類位を変えたものを作成)を2-3mの距離から女房に投げてもらって掴む練習をしました。テニスボールと違って、当たっても跳ねませんのでより容易に掴むことができます。指の機能訓練には有用と思いますので、是非試してみて下さい。
退院後自宅で自分なりにリハビリに最大限の努力をし、過労気味の日々を送っていました。ところが、8月18日自宅でいつものように訓練していましたが、座った状態から寝た状態(在位から臥位)になろうとした瞬間、激し回転性眩暈(めまい)に襲われ、その後一週間寝込むことになったのです。もともと眩暈を起こし易い(自分では低血圧と良性頭位変換性眩暈と診断)のですが、普段は数時間休めば治っていました。この時のような眩暈は初めてで、その後は眩暈の不安のため理学療法を続けることができなくなりました。
リハビリの途中でのアクシデントは、その程度の差こそ有れ決して稀ではありません。私自身、入院中、麻痺足で座位からの起立訓練中、突然左臀部に激痛が走り、おそらく筋肉痛と思われますが、一晩痛みのため睡眠も、寝返りもできなくなった事があります。その後は同じ訓練は中止しました。一般に脳血管障害の患者さんは高齢者が多いので、訓練の最中でもちょっとしたことで、腰痛、関節痛、捻挫、時には骨折をも起こしかねません。特に捻挫、骨折はその治療に時間を要し、リハビリが大きく後退することになりますので細心の注意が必要です。その時の体力に合わせて、リハビリを行っていただきたいと思います。ただ、軽い痛みを理由に、さぼる方向への気持ちでは決して回復は期待できません。
眩暈後ボーとしていた8月末のある日、N名誉教授が私の病気を知り、自宅までお見舞いに来て下さいました。先生は6年程前に脳梗塞になられ、20日間内科に入院されたのでした。入院当日、先生は脳梗塞になられたショックからか、正確な言葉は記憶していませんが、これで人生の終わりだと言うようなことを口にされたのを覚えています。はからずも、同じ運命を辿ることになった私の身を案じての、先生ご自身の体験談や励ましの言葉に、どれ程勇気ずけられたかはかり知れません。当時、先生の麻痺は軽度(5-)でしたが、巧緻運動(こうちうんどう、指先の細かい運動)の障害がみられました。特別なリハビリはしなくても回復するであろうという予測で我々はリハビリの指示は何もしなかったのでした。ところが、先生は、足の方の麻痺は軽かったとは云え、発病5日目より、エレベーターで大学病院の地下まで下りて、階段を12階まで上る練習(健康な者でも6-7階まで上ると息切れがしてきます)を毎日行っていたと言うことでした。主治医すら知らない中に、ご自分でリハビリを実行していたということをお聞きして大変恐縮した次第でした。発病1ヶ月後、残務整理のつもりで勤務を始めたそうですが、それがむしろ気持ちの上でも復帰に役だったとの事で、私にも一日も早く復帰するようにとの進言をいただきました。
2週間近い挫折のため、予定より回復は遅れた感じはしましたが、皆さんの理解と協力で、体慣らしを兼ねて予定通り9月1日より出勤することにしました。 この当時の生活動作は下記の程度でした。
握力 10kg
茶碗:小さい茶碗はごく短時間は支えうるが、どんぶり茶碗は保持できない
洗顔:手の平に水をいれることはできるが、顔に手が近ずくと指が曲がってこぼれてしまう(両手による洗顔は不可能)
洗髪:指の動きが不十分なため左手で頭をするのはほとんど実用にならない
ワイシャツのボタン留め:一番上のボタンには非常に長い時間を要する
ネクタイ:以外と難しく時間を要す
歩行:ビッコ、1時間4000歩(普通の成人の1/3程度のスピード)
最初の1週間は午後1時より7時まで、2週目より午前10時より午後8時まで勤務。講義はマイクを左手で保持できない(右手はスライドを指したり、黒板に書くのに必要)ため9月の講義は代行をしていただきました。勤務を始めると病院でのリハビリは殆ど不可能となります。中旬より自宅で時間のあるかぎり2kgの鉄アレ-を持って上肢の運動を、下肢は以前と同様1時間の散歩を行いました。
9月末(最初の3ヶ月)の機能は下記の通りでした。
[筋力]
筋萎縮は明瞭に存在し、筋力の回復が不十分な印象を受けるのは途中の大事な時期での挫折が関係あるかも知れません。
肩関節:4+
肘関節:屈曲 4+ 伸展 4-
手関節:背屈 4- 屈曲 4+
中手指関節:ハ 伸展 4+ 屈曲 4
指関節:伸展 4+ 屈曲 4
股関節:屈曲 4+
膝関節:伸展 4+ 屈曲 4
握力 15kg
[生活動作]
洗顔:可能
洗髪:指の動きは不十分、洗面器を左手で支えるのは不可能
衣服の着脱:時間を要す
診察:左手を患者さんの胸にあてて打診をするのはどうにか可能
研究:電子顕微鏡標本の作成(超薄切片の作成)は病前1時間5-6個が3-4個程度
歩行:1時間 5000歩(以前と比較して歩幅が長くなり比較はできない。
距離にして2km程度、8月の2倍程度に伸びている)、ただしビッコはかなりはっきりしている。人前ではさらに歩行の格好は悪くなる。
パソコン:スピードは遅いが左の指をキーボード上で動かすことが可能となった。
車の運転:左手によるハンドル操作がかなりできるようになった。
この様な回復状態で、予定通り10月1日より外来診療、入院患者の回診を始めることにしました。患者さんの前では、歩行時のビッコが強くなり、格好の悪さを気にしながらの診察および回診の再開となりました。今後は12月末(6ヶ月)を目標に、成否の程は経過してみないと判りませんが、左の上肢、下肢のより一層の回復をめざし、ベンの散歩のスピードについて行ける状態にしたいと思っています(図25)
ビッコを引きながら散歩をしている時に、近所の人に“どうしたのですか”と声を掛けられました。“脳梗塞で左側が麻痺したのですよ”と答えると、“血圧が高いのですか”と聞かれました。“いいえ、血圧は低いのです”と答えると、“それじゃあ 医者の不養生ですか”と云われ、あとは返答のしようがありませんでした。最近は、新聞やテレビが色々の病気を取り上げ記事にしたり、報道をしています。従って、多くの人は脳梗塞(脳血栓症)の危険因子として 高血圧、高脂血症(コレステロ-ル)、糖尿病、肥満などが重要であること、タバコは良くないことを知っています。勿論、他にも多くの未知の危険因子が有ると思います。しかし、私自身は、少なくとも上記因子で該当するものは有りませんでした。それ故、この年齢で脳梗塞になるとは思ったことも有りませんでした。ふり返ってみますと、卒業後28年間、同じリズムの生活をしてきました。大学院の時代は徹夜の生活もしばしばでしたが、それ以外の日々は、朝は遅目で8時過ぎ出勤、帰宅は午後11時-12時、それから夕食をすませ、入浴後、就寝は午前1時-2時、日曜日はNHK大河ドラマをみる時間に帰宅、時には、その後大学に行き、12時頃帰宅。年齢(加令)と共に体力は落ちて行きますが、実は、この様な生活を継続することに対して、ほとんど気にしていませんでした。ただし、今年は4月より事のほか忙しく、例年になく疲労を感じていました。そうして、7月1日の出来事でした。最近は、新聞、テレビで過労死が話題になることがあります。真の原因、誘因は明らかではありませんが、私自身は、過労、ストレスが関係していたと思っています。
振り返ってみると、自分自身、必ずしも順調な経過であったとは思えませんが、眩暈でリハビリを中断するまでは、誰と比較しても遜色ない訓練を行ったと思っています。神経グル-プの連中から、“最初の発語障害、麻痺の状態から、職場復帰は無理ではないかと内心心配していたけれど、本当に早く回復しましたね”と云われます。これが自然経過の結果か、リハビリを頑張ったためか判りません。しかし、自分では、リハビリを頑張ったためだと思いたいのです。機能回復には、最初の3ヶ月が勝負です。理論的背景をもった、効率の良いリハビリは大切ですが、それよりも、乱暴な言い方ですが、理屈をこねる前に訓練を始めていただきたいと思います。それが回復への最短距離であると私は信じています。
この度の闘病中、沢山の方々の激励、お見舞いをいただきました。ここに心から厚くお礼申し上げます。また、下記の方々には、特に身近にあって御支援いただきました。あらためてお礼申し上げます。
春回会井上病院、長崎北病院理事長 井上満治先生
北九州市立八幡病院院長 辻野直之先生(退職)
長崎大学名誉教授 内藤芳篤先生(長崎医療技術専門学校校長)
長崎大学医療技術短期大学部部長 三浦敏夫先生(退職)
長崎大学第一内科教授 長瀧重信先生(放射線影響研究所理事長)
長崎大学第一内科神経グループの先生方
迫 龍二先生(はざま神経内科)
吉村俊朗先生(長崎大学医療技術短期大学部作業療法学科教授)、
瀬戸牧子先生(長崎北病院副院長)、
中村龍文先生(長崎大学大学院分子病態学分野助教授)、
佐藤聡先生(長崎北病院副院長)、木下郁夫先生(長崎原爆病院)、
冨田逸郎先生(長崎北病院)、
調 漸先生(長崎大学第1内科講師)、本村政勝先生(長崎大学第1内科助手)、
大石清澄先生(富江診療所)、柴山弘司先生(長崎市民病院)、
長郷国彦先生(健康保険諌早総合病院)、松尾秀徳先生(国立療養所川棚病院医長)、
竹尾剛先生(長崎労災病院)、大津留泉先生(東京大学リハビリテ-ション科)、
渡辺裕子先生(退職)、
一ノ瀬克浩先生、西浦義博先生、伊藤聖先生(ビハ-ラの里病院)
リハビリに関与
医短作業療法学科助教授 長尾哲男先生
長崎北病院作業療法士 山下美穂先生(長崎医療技術専門学校)
長崎北病院理学療法士 茂田久美子先生(退職)
挿し絵 松竹美奈氏
著者略歴
昭和12年(1937年)12月18日生 | |
昭和38年 | 長崎大学医学部卒業 |
昭和39年6月 | 医師国家試験合格 |
昭和45年5月 | 長崎大学第一内科助手 |
昭和46年3月 | 学位取得 |
昭和47年10月 | 米国メイヨクリニック留学 |
昭和50年3月 | 帰国、第一内科助手復職 |
昭和61年4月 | 長崎大学医療技術短期大学部作業療法学科教授 現在に至る(平成6年4月より長崎北病院-現在に至る) |
専門 神経内科